”遠い夏に想いを”- Click here もごいち読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出や、その後思い出の国を旅したブログ手記です。

マーフィー・ホール - 0262011/03/05 00:01

 ここを出て、メリル・ホールの前を通って左に曲がり、チャーチ通りにでる。
 ジャーナリズムとマスコミュニケーションがあるマーフィー・ホール。ここには広告の授業をうけによく来たものだ。
 その隣は、フォード・ホールでフレッシュマンズ・イングリッシュやヒューマニティーのクラスがあった。
 みな若い頃の思い出が詰まった懐かしい建物やホールだ。

ノースロップ・オーディトリアム - 0252011/01/25 16:04


 ノースロップ・オーディトリアム(大学の大講堂)に入ってみた。舞台は何か催物の準備にとりかかったばかりらしく、照明がついていた。今は、大学の催物にしか使われないのだろうか。

 昔はミネソタ交響楽団が定期演奏会に使っていた。その後、ミネアポリスのダウンタウンにコンサート・ホールができて移っていった。我々がミネソタにいた頃に、今は亡き岩城博之さんが一度ここでミネソタ交響楽団を指揮したことがあった。

ジョンストン・ホール - 0242010/12/02 14:07

 構内のピルスベリー通りを抜けて、文学部などがあるピルスベリー・ホール、ジョーンズ・ホール、ニコルソン・ホールまで来る。ジョーンズ・ホールは大変古臭い小さなホールで、その前の小さなロータリーはセントポールとの間のインター・キャンパス・バスの停留所になっている。これらのホールには、ノッコが一年間聴講生としてフランス語の勉強に通ったところだ。

 左に折れて、プレザント通りを歩く。ウエスブルック・ホールの前を通って、ジョンストン・ホールの脇から広場に出る。70年に初めてこのキャンパスにタクシーで来た時、降りたのがジョンストン・ホールの脇だった。入学の手続きと、科目選択がこのホールでおこなわれた。授業が始まる直前に来たので、もう、学生は誰もいなかったし、時期が遅くて希望の科目も満員でとれなかった。

イースト・バンク - 0232010/11/08 20:17

 ワシントン通りを渡り、理工学部の建物があるあたりから、ミネアポリス・キャンパスに戻った。ここの大学は昔から化学に定評があった。3Mが化学関係の企業であり、ミネソタでは最大の製造会社であることと無関係ではあるまい。

 また、当時、コンピュータ関係の学部とか医学部や英語などの学部が評判が良かった。一番、変貌を遂げた地区がこの理工学部の地区だ。新しいデザインの建物が数多く建っている。

 スタジアムの脇を通る。アメリカン・フットボールのスタディアムだが、メトロドームが出来てから、使われていないのか閑散としている。雨が降っているのでなおさらだ。フットボールでは、ミネソタ大学は余り強くなかった。今はどうなのか知らない。当時、バスケット・ボール部がビッグ・テン地区で優勝して大騒ぎになった記憶がある。

昼食はアメリカン・パイ - 0222010/10/03 21:14

 ある日、インターナショナル・スチューデント・ハウスでリックと話をしていたら、ノッコがチャオと一緒に何処かへ行って戻ってこない。そろそろ昼飯時だった。

「あの時は、チャオと2人りともいないんで、本当に心配したよ」
「だって、何もすることがないから、その辺、ブラブラしてみようと思ってね」

 何処へ行ったのだろうと思っていたら、やや暫くして、にこにこしながら戻って来た。チャオは両手に小さな袋と缶を抱えている。
「買い物してしまった。アメリカで初めて自分で買い物したの」
ノッコが笑っている。
「へー、すごいね。で、何を買ったの?」
「お昼にパイとスプライト」
チャオの抱えている袋を指した。
「それじゃ、ミシシッピー川の土手に行って食べよう」
ここからミシシッピーまでは2ブロックくらい離れている。途中に小さなグロサリーが1軒、住宅街の角に電話ボックスと共に建っている。この店でパイを買ったのだ言う。

 イースト・リバー・ロードという道路が川岸沿いにある。殆ど人も車も通らない静かな通りである。川に沿って石積みの低い垣根が連っている。ミシシッピー川の土手と言っても川は遥か下の方を流れているし、土手の上にも樹木が植えられていて木陰を作っているから、川は木の間から少し見えるだけだ。ミネソタ・センターとフォレン・スチューデント・アドヴァイザー事務所の裏手になる地区だが、樹木と緑が多く小鳥の鳴き声が聞こえる閑静な所である。

 ここで昼食をとった。市販のパイだから、家庭で作るものと姿・形も違ってアメリカン・パイと呼べない。甘くて甘くて我々日本人には到底食べられないが、みんなで我慢して食べた。350ミリリットル入りのスプライトやコーラは、当時、日本では北海道でしか売っていなかったが、これも日本のとは比較にならないほど甘い。アメリカの菓子類はすごく甘い。ケーキやチョコレートなど大抵は甘すぎるから、自然と敬遠してしまう

スチューデント・ハウス - 0212010/09/14 07:56

 大学が民家を借りてインターナショナル・スチューデント・ハウスという組織に使わせていた。
 働いている連中は全員ボランティア。アイルランドから大学院に来ているチャールス・マクガイアーという男が取り仕切っている。痩せているが、きびきびしている、いかにもアイリッシュという男だ。リックというオクラハマ大学から転校してきた男がアパート探しを手伝っている。チャーリーの奥さんでインド人の女性サリーが事務処理の中心になって働いている。
 インターナショナル・スチューデント・ハウスでは何人働いているのか判らない。入れ替わり立ち代わり学生が出入りする。学生でない人達もいる。ミネソタ滞在中世話になったキャシーという既婚の女性や、エジプトから子持ちで来ているアザという女性もそうだ。
 行く度に、入り口のホールでロッキング・チェアーに座ってタバコから手を離さない丸々と太った黒人の女性は何者か未だに判らない。ひどいチェーン・スモーカーで咳をしながらヴィックスを舐めなめタバコを吸っている。咳がひどいなら、タバコを止めるか一時控えたらと忠告したが、タバコを止めるなら死んだ方がましだと言って、ゴホンゴホンやりながらタバコを離そうとしない。
 とにかく不思議な場所だが、着いてから3日間は毎日通った。というのは、親子3人でホテルに長居するほど経済的に余裕がない。ホテルを3日しか予約していなかったから、何としてもその間に住む所を捜さなくてはならない。(写真はスチューデント・ハウスがあった家)

フォーレン・スチューデント・オフィス - 0202010/08/04 15:14

  通称フォーレン・スチューデント・オフィス(正式には'International Student Advisory Office、通称 I.S.A.O.という)と呼ばれている事務所は2階建ての民家のような建物で、キャンパスの東端のミシシッピ川沿いに建っている。隣の右側には同じく木造2階建てのミネソタ・インターナショナル・センター(Minnesota International Center)と呼ばれるオフィスがあり留学生にミネソタの情報を提供している。
  フォーレン・スチューデント・オフィスでは、最初に会った教授が1年間、学校のこと、生活のこと、授業全般のことなど、何かと相談にのってくれる。私が会ったのは物腰が静かでいかにも物分かりがいい感じの年配の教授だった。

大学キャンパス - 0192010/07/03 11:55

 ミネソタ大学は1851年設立の州立大学で、ミネソタが州に昇格する7年前のことである。モリスやドゥルースやクルックストンなどミネソタの他の地域にもキャンパスを持っているが、ミネアポリスとセントポールのキャンパスが最も大きい。面積的にも全米で有数の広さである。

 ミネソタで唯一の州立大学ということもあり学生数がかなり多いマンモス大学である。1857年当時は学生数が72人だったものが、1970年には5万人に膨れ上がった。1996年以降はその数字が減少しているという。

 ミネアポリス・キャンパスはミシシッピーを挟んでイーストバンクとウェストバンクの2つのキャンパスからなる。

 ウェストバンクは、当時はビジネススクールと社会学部とウィルソン・ライブラリーだけが置かれていたが、現在はその他の学部の建物もある。

 イーストバンクには主要な学部があり、ミネアポリス・キャンパスの中心的地域である。医学部、工学部、文学部など20以上の学部がおかれている。

 イーストバンクとウェストバンクの2つのキャンパスをつなぐ橋が変わっている。まさにユニークなのだ。この橋は2階建。1階はミネアポリス市街に通じるワシントン通りが通っている。2階部分は歩道橋で、左右の欄干部分には川を望む露天の歩道があり、中央部分は白い鉄のフレームにガラス張りの通路で、冬になると暖房が入る仕掛けになっている。

ミネソタ大学入学手続き - 0182010/06/09 10:35

 「今日は、こちらはいいから、フォーレン・スチューデント・オフィスへ行ってください」
「あの時はBAタワーで女子事務員にそう言われて、白黒刷りの大学の構内地図を手渡されたよね」
「さー大変だって」
地図を見たらスチューデント・オフィスはイーストバンクの一番東端ではないか。1キロ半か2キロは歩かなければならない。

1人ならいいのだが、子供のチャオがいる。
「チャオ、これから15分か20分歩くけれど、歩けるかい?」
「大丈夫さ、ぼく元気だもの」
笑顔で返事をする。

 私はこの子に感謝しなければならない。アメリカ流にいうなら、大変、誇りに思っていると告白しなければならない。
なにせ、『ぐずる』ことや『だだをこねる』ことや『文句を言う』ことが全く無いのだ。

 夜遅く車で帰宅した時も、「家に着いたよ」と眠っているチャオを起こすと、さっと目を覚まして、何も無かったように、とことこと1人で歩いてくれる。5才になったばかりとはいえ、まだ4才の子供だった。

ミネソタ大学・ウェスト・バンク~2 - 0172010/05/11 11:12

「少し、ウェスト・バンクを歩いてみようか」
「ええ、私は余りここには縁がなかったわ」
ノッコが呟いた。
ウェスト・バンクはミシシッピとシーダーアヴェニュの間にある。70年当時はウィルソン・ライブラリー、ビジネス・スクール、社会学部、ブレ-ゲン・ホールとアンダーソン・ホールなどの共通教室、ロー・スクール、その他、地下街があって各ビルを地下でつないでいる。
「何か昔と変わった?」
ノッコが建物を見渡して言った。
「基本的には同じだけれど、新しい建物が増えたみたいだ」
医学部のウェストバンク・センターとかコンサート・ホール、ミドルブルック・ホールやダンス・センターもある。